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 20周年記念誌
タイトル 院名 氏名
自己紹介 名古屋大学医学部
泌尿器科教授
大島 伸一 10

                         自己紹介

                              名古屋大学医学部 泌尿器科教授 大島 伸一

高校時代、農業をやろうか、土木をしようか、医者になろうか迷ったが、医師としての道を選んだ。
農業、土木、医学、一見脈絡が無さそうだが他人に頭を下げることが少なくて済む、身体を
動かす事のできること、多少とも世の役に立つことが眼に見えるような仕事、というようなことを
頭のなかに描いていたように思う。今は他人に頭を下げてばかりいる。
医学生の後半では医者になったら腎移植をやると決めた。泌尿器科医になったのは、中京病院の
故大田裕祥先生に出会ったことが大きい。外科医になって腎移植をやっていたら今頃はつぶれて
いるか余程異なった人生を歩いていたことだろう。1970年に医師になり中京病院で研修を行い
1973年に第1例目の腎移植を行ったが、現在ピッツバーグ大学の外科教授の岩月舜三郎先生に
手取り足取りで教えてもらった。
当時は卒後3年目の医師が腎移植、腎移植と騒いでも気違い扱いされるだけで、誰も相手に
してくれなかったが、世の中には気違いをまともに相手にしてくれる人も居るということを知った。

あの頃は、血液透析が軌道にのりはじめた時で腎不全の患者さんが皆助かるようになってきており
透析が花形の時代であった。一方、腎移植の成績は良くなく、時に死亡という大事に直面し、
その度に夜逃げを考えた。学会では内科の先生方から腎不全の治療で透析と腎移植が車の
両輪などとはとんでもない、こんな状態で車が走るかと詰問され返答に窮し、えらい道を選んで
しまったと半分後悔していた。厳しく責められながらも、陰では、どうしても通らねばならぬ道だから
頑張れと応援し続けてくれたのも内科の先生方である。

今では胸を張って腎移植は腎不全治療の車の両輪の一つだと言い切ることができるところまで
きた。QOLを考えれば移植の方が優ると断固として言える状態までなっている。あのときの悔しさを
忘れることはできないが、心から感謝している。
だが、どれ程良い成績を誇っても腎臓がないことには移植はできない。透析患者が17万人を越え、
移植希望者が1万6千人、年間に行われる移植件数は約600、うち死体腎移植は160〜180件で
ある。米国の年間約1万件と比べても栓ないが、この少なさではとても腎不全治療の両輪の一つと
言うことはできない。

治療法としての腎移植を定着させることはできたが、医療としての腎移植はまだまだの状態で
ある。このまだまだの状態が我が国では10年も20年も続いている。進歩した腎移植医療の
技術の恩恵を、腎移植を望んでいる多くの人にゆきわたるように何とかしたい。それが今の
私の望みであり、私の役割であると理解している。何故腎臓の提供が増えないのか、
袋小路に入り込んだような感覚に陥り、気が滅入ることも多いこのごろだが焦らずに行きたいと
思う。
医者になったときは、腎移植を50例やりたい、それができなければ自分が医者になった意味は
ないと思いつめていたが、30年近く経ってみると、懐かしさととともに恥ずかしさで言葉を失いそうに
なる。年をとってみるとなどと言うのはまだ早いが、考えてみれば若い頃の思い違いはしばしば
あるものだ。医者が頭を下げなくてすむ職業だなどとは思い違いもはなはだしいものである。

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