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タイトル 院名 氏名
透析と私 社会保険 中京病院 腎臓科 杉山 敏 23


透析と私

社会保険 中京病院 腎臓科 杉山 敏

 私が腎臓に興味を持ち、腎専門医を目指したのは、学生時代に何か印象に残る講義を受けたからではなく、また研修医時代、先輩の誘いがあったからでもない。私が公立陶生病院で研修を受けていた時に担当した腎臓病の患者との出会いが私の方向を決めたように思う。卒後研修時代、私とほとんど年の変わらなかった若者が、虫垂炎の手術で入院した。術後、血液検査で腎不全のあることが分かった。しかし、透析治療がまだ一部の限られた病院にしかなかった当時、何の手だてもされなかったし、またできなかった。ある朝、病室を訪ねると、彼の姿はなかった。尿毒症になれば数日で死ぬと言うことはごく常識的なことであり、誰も不思議には思わなかった時代であった。内科に所属し研修を受けていた頃、現在のCAPDの走りである腹膜潅流と言う治療法のあることを知った。興味を持ち必死になって勉強しだしたのは、そのような出来事があったからだと記憶している。当時、腎臓の専門医は日本全国どこの病院にもあまり多くなかった。循環器の専門医で腎臓に興味を持った先生が腎疾患患者を診ることが多かったように思う。話は少し横道にそれるが、透析医療のパイオニアであり、私が一時、陶生病院から派遣され研修させていただいた虎ノ門病院の三村信英先生が10数年前、時の大平首相が心筋梗塞で倒れた時、医師団長としてテレビの記者会見に登場したことがあった。一瞬、どうして三村先生がと目を疑った。お世話になった三村先生が虎ノ門病院の循環器部長であることをその時まで知らなかったのである。腎疾患が循環器系疾患の一部門と捉えられていた時代であった。ついでに虎ノ門病院での話であるが、当時、透析ベッドが足りずかなりの患者が通院して腹膜潅流を長期に受けていた。私が研修を受けていた頃、既に腹膜硬化症の症例があり、みんなでディスカションしていたことを憶えている。
 陶生病院での内科医時代、私を指導するはずの上司も、いずれ病院にも透析装置を入れようと言う状況であったため、腎臓の勉強を始めたところであった。腹膜潅流を勉強していた頃、ある若者が入院してきた。顔色は悪く、尿毒症で嘔吐する彼に、上司と二人で、参考書を片手にトラッカーで腹腔にカテーテルを入れ腹膜潅流を開始した。現在のCAPDの様な閉鎖回路はなく、カテーテルの周囲をガーゼで包み、点滴瓶と同じような1Lのボトルを何本か並べ毎回スパイクして液を注入した。1クールの腹膜潅流が終わると、腹腔カテーテルを抜き腹膜ボタンと呼ばれる盲端になった5〜6センチの管を腹壁の穴にそこが閉じてしまわないように入れておく。次の腹膜潅流を開始するときには、腹膜ボタンを抜き、新しい腹腔カテーテルを入れて始める。ある時は感染して排液が白く濁り、またある時は腹膜が癒着し、注液や排液が思うようできず、途中で腹腔カテーテルの入れ直しをするなど、苦労だらけであった。急性期を腹膜潅流で乗り切った後、血液透析をやってもらえる病院を捜し、彼を送りだした。何もしなければ数日の命の若者が、改善していくのを目の当たりにし、腎臓病の治療を自分の仕事にしょうと、この道を選んだ。彼とはその後、私が新生会第一病院で家庭透析を担当をするようになって再会した。彼は手根管症候群を除いては大きな合併症もなく、今も元気に家庭透析を続けている。27年に及ぶ医師と患者とのつき合いである。彼とCAPDについて話をすることがあるが、「僕はどんなことがあっても絶対にやりませんよ。あんな大変なものは。」と言うのが彼の口癖である。稚拙な私のやり方がよほど彼を苦しめたに違いない。


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