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20周年記念誌 |
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明陽クリニックの紹介 |
明陽クリニック 院長 |
鶴田 良成 |
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明陽クリニックの紹介
院長 鶴田 良成
当クリニックは平成8年4月に豊橋市に開設された、比較的新しい透析センターです。豊橋駅の新幹線口より徒歩にて約10分の所に位置しています。8階建ての茶色の外壁の建物の6階にあります。1階から5階までが同じ医療法人明陽会の老人保健施設「明陽苑」となっており、7、8階は看護婦寮です。同じ6階には明陽会本部も同居しています。透析ベッド数は96床あり、ひとつのフロアにこれほどの規模を有する透析センターは全国でも数少ないと思われます。この6階の透析室の天井は他の階と比べて高く、またベッドの間も広くとってあり、柱もベッドが影にならないようにと建築の設計段階から配慮がされてあります。東の一面は広く窓がとってあり、周囲にはさえぎるものはなく、豊橋市を広く眺められます。このため昼間の透析室には明るい光が入ってきます。 当クリニックの前身は、豊橋駅の新幹線口のすぐ近くに位置する同じ医療法人明陽会の総合成田記念病院透析室です。三河地区では先がけて昭和54年より当時の成田病院に透析室が開設されました。そして平成8年3月の時点でベッド数は94床でした。同年4月に当クリニックが設立されると、成田記念病院透析室に通院していたすべての外来通院の患者さんが、担当医師や看護婦とともにこちらへ移りました。そして総合成田記念病院透析室には20床が残され、こちらは透析導入と入院患者の血液透析を担当していただいております。またCAPD外来も同院4階北病棟が担当しております。 当クリニックに通院する維持血液透析患者さんは平成10年9月には約260名です。月・水・金曜日は昼間のみ1クール、火・木・土曜日は昼間1クール(一部2クール)と夜間透析を行っております。患者さんの最高年齢は90歳、最小年齢は20歳。最長透析歴は29年です。 医療法人明陽会の名前の由来は、米国のメイヨー・クリニックからとったそうです。しかし当時、おなじ発音の透析施設が豊橋にできるとは想像していなかったようです。まったく同じ名前を冠した明陽クリニックは、名前負けしないように、これからも本家(あちらは本家とも思っていないでしょうが…)を一方的に意識しつつ、スタッフ一同協力して患者さんの診療、看護にあたっていきたいと考えています。 (平成10年9月記) ■自己紹介 全く体重が減らず、アルコール制限などのダイエットも実効なし、というのが44歳の小生の現況です。 名古屋大学医学部を昭和55年に卒業後、東京の三井記念病院にて2年間の研修。その後、名大分院内科(今の大幸医療センター内科)へ入局。すぐに豊橋市の医療法人総合成田記念病院(当時、成田病院)に勤務。当時、腎臓内科部長といっても血液透析が主体。しかし必要に迫られ腎炎の分野へ。「病診連携」の大切さを実感したのもこの頃。30歳代後半では周囲にいくつか透析センターが開設され、やはりなにかと多忙だったように思います。 平成8年4月(41歳)に明陽クリニック院長、成田記念病院腎臓内科顧問となり現在に至ってます。(明陽クリニックの紹介は後で述べます。) ふりかえってみれば医局へもどった期間はわずか。どうも小生には在野が性に合っているようです。 日本の透析患者さんは増加の一途をたどっています。しかし限られた医療保険財源のなかで、透析医療技術の質を下げず、さらに発展させながら、患者さんのcureとcareを良くしていくためには、私共透析医療スタッフが協力し合って努力していかなければならないと思います。 最近、介護支援専門員の試験をを受けました。合否はまだ不明ですが、社会福祉を実現するためには、医療のみならず福祉、公衆衛生、そして行政など広い分野の協力が必要であることを実感しました。透析患者についても同じことがいえるのかと考えます。では具体的には今後どのようにしていけばよいのか、というと残念ながらまだ明確な解答がだせません。 (平成10年9月記) |
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