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 20周年記念誌
タイトル 院名 氏名
愛知県透析医会「20周年記念誌」発刊にあたって 医療法人 明陽会
成田記念病院 院長
成田 眞康 3

歴代会長

            日本透析医会の設立は愛知県透析医会から

                                  医療法人 明陽会 成田記念病院 院長
                                                    成田 眞康

愛知県透析医会「20周年記念誌」発刊に当たり、一筆寄稿させて頂きます。

私は、1928年2月8日に長野県上諏訪に生まれ、今年で70歳(古希)を迎えました。
70歳の誕生日は、長野オリンピックの最中で、以前より産業医を務める健康保険組合主催の
健康教室の為、八ヶ岳高原ロッジへ行っており、そこで迎えました。八ヶ岳高原ロッジには、
50〜60歳の御夫妻10組の方々と同行し、ホテルにて、日常生活を一定のカリキュラム
(特に食事を中心に)のもとに過ごして参りました。高原ロッジの近くに、大変立派な音楽堂があり、
夏場は色々な催し物があると伺っておりますが、そこをお借りし、2時間程「生活習慣病」について
講演を行いました。
講演会では、出席された皆さん一人一人が大変熱心に聴講して下さり、又、私自身健康について
再度考える機会ができ、よかったと思っております。

私達が訪れた八ヶ岳高原ロッジは、2月ということもあり、気温がマイナス7〜10℃、積雪2mという
状態でした。そんな中で迎えた2月8日の夜、思ってもみないことに、皆さんが、私の
誕生パーティーを開いて下さいました。
そのパーティーの時、大変驚いたことに、私のテー ブルの前に、元アリスの矢沢透さんと
岸田智史さんがみえ、感激致しました。
こうして迎えた70歳の誕生日は、大変心に残るものとなり、また、この時の皆さんの温かい
お心遣いは、これから先誕生日を迎える度思い出すことと思います。

八ヶ岳での4日間を終え病院へ戻り、色々な雑務に追われる日々が続いております。
私も70歳を過ぎ、あと何年生きられるかと思っている今日此の頃ですが、振り返ってみると、
私が現在、医療従事者として色々なことができるようになったのは故太田裕祥先生との出会いが
あったからでした。

昭和27年、昭和医科大学(現昭和大学医学部)の学部1回生として卒業した後、名古屋市にある
中京病院−豊橋中学の先輩でもある中西院長の下−で、私を含め7名(名大出身4名、他大学
出身3名)と共にインターンとして過ごしました。
その当時、太田先生は皮膚泌尿器科部長でありました。太田先生は、大変外来患者さんも多く、
又、後輩の指導にも熱心であり、私にとっては大変勉強になった時期でありました。
この時太田先生から教えを受けたことが、私の今日に繋がったのだと感謝しております。

国家試験も何とか合格し、医師免許を取得した後、父より突然「内科をやれ」との話があり、
太田先生のご配慮により名大第2内科へ入局致しました。その後、国立岐阜療養所、東海病院、
豊橋市民病院桜丘分院等を経て、昭和35年6月、成田病院(現成田記念病院)へ戻ることと
なりました。

当時、成田病院は、外科の医師3名の外科病院でありましたが、内科 を併設し、年々ベッド数も
増え、昭和44年、透析を導入致しました。透析を導入したきっかけは、昭和44年初め頃、たまたま
中京病院へ参りましたところ、太田先生より「腎不全の治療を一緒にやらないか。」とのお話が
あったからでした。
その後2回(各1週間程度滞在)、アメリカのクリブラウンドクリニックへ勉強に行きました。
クリブラウンドクリニックには、人工腎臓の新しい治療を行い、大変素晴らしい成果をあげた
コルフ先生がおみえになり、腎臓内科の中元先生のご指導のもとで勉強して参りました。

クリブラウンドにて学んだことをもとに、昭和44年6月、急性腎不全の治療を目標に4人用の機種を
導入し、ダイアライザーはキール型で毎日治療に取り組みました。当時の機器は今のような
立派なものではなく、毎日セロハン紙を貼るという作業がありましたのが、懐かしく思い出されます。

第1例は、当時60歳の女性で、胆石と化膿性胆嚢炎の手術後の急性腎不全になった
患者さんでした。透析治療を毎日繰り返し、その結果とても元気になられ、80歳で脳梗塞にて
亡くなったと伺っております。 
このことがきっかけで、腎不全の患者さんが徐々に増えました。(特に、名古屋地区より、
前田先生、太田先生、萬治先生、斉藤先生、その他名大分院の先生方の応援を受け、
患者さんが増加しました。)

当時で一番印象に残っているのは、一つは、豊橋は昔は大変水質が良く、透析に使用する水も
地下水を利用しておりましたが、冷暖房にて水を汲み上げる為、次第に水質が硬水化し、
その為か、透析患者さんの数人が、消化管出血(胃潰瘍・十二指腸潰瘍)・吐血・下血等の
症状を訴えたことです。
その当時は、現在のような抗潰瘍剤はなく、外科の方も手術は出来ないとのことで、治療に
当たっては大変苦慮した記憶があります。高カルシウム血漿により、ガスタミンの分泌が高くなり、
潰瘍ができたのではと思われ、そこで直ちに井戸水を市水に変えたところ、二週間位経って
潰瘍はほぼ治癒しました。当時このことをまとめて学会発表すればよかったのですが、
忙しさのあまりそれもできませんでした。

又、その後、B型肝炎が発見されました。B型肝炎は、現在は治療可能な病気でありますが、
当時は、治療が難しいとされておりました。
それから間もなく、今でも辛く思い出される出来事がありました。それは、当時透析室勤務の
20歳の看護婦さんが、ある朝腹痛を訴え、診察をした結果、何となく黄疸症状も出ており、
血液検査をした後入院してもらいました。点滴を施し様子をみておりましたが、午後には
錯乱状態に陥り、大変な状態でした。

その日は太田和宏先生が見えており、診療の結果、これが「激症肝炎」ではないかとの結論に
達し、前田先生を呼び、血漿交換をするということになり、シャントを作り、キムコ(活性炭)を使い、
皆さんに献血をお願いし、血漿交換を2日間繰り返しました。
しかし、状態は改善しませんでした。
できる限りの治療をと考え、名大分院に移し、豚の肝臓で還流を行ないましたが、結果的に成果は
得られず、お亡くなりになられました。このことについては、大変ショックを受け、その後は院内に
感染対策委員会等を設け、スタッフの管理を行なっており、このような発生はありません。

それから30年経 った現在は、透析医療も格段と進歩し、又、透析機器も比較にならない程
良いものが使われており、スタッフも専門的な知識・経験を持った方が多く、透析医療は、
大変目覚ましい進歩を遂げたものと感じております。

現在、社会的にも取り上げられている腎臓移植が日本に於いて増えないのは、一つには、
透析医療が諸外国に比べ大変優れていることが考えられると思います。しかし、腎臓移植は
必要不可欠な治療法であり、多くの患者さんに、早く移植ができる様にと願っております。

透析医療につきまして過去を振り返りますと、ここに挙げました以外にも色々と思い出されます。
これから先21世紀を迎え、医学会は更なる問題に対面し、その原因の究明・治療方法の
研究がなされ、確実に進歩していくものと確信しております。

これから先もますます医学が発展し、多くの方の命が守られますことを、医療に携わる一人として
期待しております。
まだまだ書きたいことばかりですが、またの機会にさせて頂きます。

最後になりますが、この度は「20周年記念誌」発刊、誠におめでとうございます。

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