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20周年記念誌 |
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名古屋クリニックのプロフィール |
名古屋クリニック 院長 |
山田 廣道 |
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名古屋クリニックのプロフィール
名古屋クリニック 院長 山田 廣道
新生会第一病院のサテライトとして昭和56年2月 東海 金山に次いで3番目の自主管理通院透析施設として、名古屋駅前菱信ビル3階にオープンした。 稼動ベット20床、80人迄受入れ可能にて、会社帰りのサラリーマン、又公共の交通機関を利用出来る方にとって大変に便利であり、従って臨時透析の依頼も多い方だと思います。こじんまりとして落着いた、アットホーム的な施設を目指して運営して居ります。 院長は昭和56年より丘博文、平成元年4月1日より昨年8月31日迄相沢尚己両先生が担当し、小生は昨年東海クリニックの新築移転も終り、一段落し、平成9年9月1日より当院をお預りして居ります。 自己紹介 私と透析医療の関わりを申しますと、平成の声を聞いてから、此の透析の仕事に携わり始め、やっと足掛け10年諸先輩の励ましと、御指導によって今日迄何とかやってまいりました。色々と難かしいことは解りませんが、透析にて患者さんに長生きして頂ける様、アドバイスをしている透析番人です。 激しい空襲の中、又戦後の食料難の頃に学生生活を送り、人並の苦労はしてまいりましたが、来年は大学卒業50年となり、又色々と記念の催しも計画されています、同級生の何人かは、鬼籍の人となり、淋しさはぬぐえませんが、今や人生80年、21世紀に向けて、前向きに生きたいと思います。 趣 味 私公立尾陽病院に勤めていた時、欧米医療視察団の団長として各国の主要都市の病院を廻る為、3週間の予定にて昭和61年6月に出発した、各地での歓迎も今では懐かしい思い出である。それに刺激されて海外に出掛けたく、東海クリニックに入った頃から毎年行く様にしていたが近頃は無理になって来た。 世界旅行と云うても全く部分的で、アンデスの山間を一日列車で走る、世界で最も北の高等商船学校や高等看護学校の有る北極圏の町トロムソ、南アフリカ連邦のケープポイント、ヒマラヤ山脈を見るとか、自分でも重箱の隅をほじくっている様で情け無いとも思います。私の様な者を先端症候群、岬症候群と云うのだそうですが、又事情が許せば、国の内外を問わず、何処も知らないので、何でも見てやろうと歩き廻りたいと思います。 又私程の年ともなれば、老化は否応なく、体力の衰え、及び惚けもだんだん現われることを思い、頭と体を使うことを考え、最近の映画 シヤル・ウイ・ダンスの影響でもないですが、50年前の学生の頃に歸り、社交ダンスを始めましたが、終戦直後の学生時代のステップは全く通用せず、今日のレベルの高さには驚くばかりです、寄る年波には勝てず、色々有りますが、楽しみながら頭と体を使い、少しでも姿勢良く元気になれる様、名鉄神宮前熱田の森にてステップを踏み始めました。これも楽しみの一つですが、唯何処へ行っても一番年長なのにはまいります。 先日もカップルになってクイック・ステップを練習中、踊り終ってA子ちゃん、出来た出来たと大躁ぎ、喜びのあまり小生に抱きつき、私吃驚 思わず足を滑らして二人で抱き締め重なり合ったまゝツルリト・スッテン・ドーン思い切り右肘、右肩、右腰をいやと云う程強打した。山の神、そばにかけより粗大塵になったかと心配顔。 ダンスミュージックも昔の曲、タンゴ ラクンパルシータ、ワルツ鈴掛けの道でもかゝれば、懐かしく思わず口づさみいゝ歌だねと、周囲を見渡せば、唯頷くは頭の禿げた爺ばかり。 話しは変りますが、昔金山クリニックの出来る前、伝馬町に熱田クリニックが有りました。その後施設の経営は変りましたが、最近迄透析施設として運営されて居りましたが、今年5月にNDAダンス教室(松岡ダンス教室)として移転開設、小生宅とは交又点をはさんで目と鼻の先、此んな近くに教室が出来て又むらむらと闘志が沸いて来ました。 |
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